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人々の住来で賑わった東海道、しかも中仙道との分岐点だった草津宿も例外ではなく、名物の餅が旅人の口の慰めとなっていた。 広重、北斎の浮世絵や各種の名所図会にも描かれている『うばがもちや』がそれだ。 そもそも『うばがもち』とは?その由来をちょっと講釈。時は永禄、といってもピンとくる人は少ない。時代的にいうと、なんと戦国時代にまでさかのぼる。上杉謙信と武田信玄が川中島で戦い、織田信長が桶狭間の戦いで今川義元を倒したころが永禄年間(1558〜1569)。その織田信長の武名、天下にとどろき諸国を制覇、ここ近江の守護代となったころのこと。 |
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その中に三歳になる義賢の曾孫もいた。義賢は滅ぼされた際、その幼児を心より託せる人がいなかったので、乳母である”福井との”を招き、貞宗の守刀を授け、ひそかに後事を託した。 乳母”との”は旨を守り、郷里草津に身を潜め、幼児を抱いて住来の人に餅をつくっては売り、養育の資として質素に暮らした。そのことを周囲の人たちも知り、乳母の誠実さを感じて、誰いうことなく「姥が餅」と言い囃したという。 草津は東海道と中山道の分岐点、交通の要所で、往き交う旅人の格好の休み処だったので、この言葉とともに『うばがもち』の名は早くも天下に知られるところとなった。
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