うばがもち物語

東海道五十三次のひとつで、中仙道との分岐点でもあり、近江路随一の宿場町だった草津。中仙道なら江戸から129里10町8間、一方、東海道はというと119里18町1間、その差約十里、つまり約四十キロの違いがあった。東海道の宮(熱田)から美濃路を歩き、垂井から中仙道をいけば120里6町、これなら東海道の本道と大差はない。しかし、中仙道は山また山、宿駅も小さい。旅を楽しむには東海道のほうが向いていたかもしれない。

さて、その東海道と中仙道の合するところ、東海道名所図会によれば、京都から下ると追分で『右へ曲がれば東海道なり。直ぐに行けば木曽街道、中仙道、名護屋道なり』とある。(今は『右東海道 いせみち』『左中仙道 美のじ』という石の道標が残る)この草津の宿の人口は2351人、家の数は586軒、そのうち本陣が2軒、脇本陣が2軒、旅籠屋は72軒あったという。

 

 

当時、旅といえばおかげ参りを理由にお伊勢様へのお参りに代表されるように、神社仏閣への参詣講が圧倒的に多く、あとは湯治場へ行く、といったのが主。いずれにしても江戸期の旅は大仕事だった。

そして街道の楽しみは、茶屋での一服。宿場から宿場への途中、見晴らしのよい峠の茶屋や、海辺の松林で松風や波音を聞きながら憩いをとり、空腹をいやす。そんな時のつきものが、餅や団子。餅は腹持ちがいいので特に旅人には大歓迎された。

さて、おかげ参りで賑ったお伊勢様への参宮街道(桑名〜山田)は別名”餅街道”。
道中名物としても今も数々の餅が残っていることはご承知のとおり。当時のことだから、それらはいずれも口コミで、あそこの餅はうまかった、いや、こっちのほうが・・・という風に広まり、いつの間にか土地の名物餅となっていく。

 


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